夜の電話

 森での一件から数週間。私の右腕の怪我は化膿することもなく順調に回復していった。明日からは仕事復帰だ。一人寂しい傷病休暇も今夜でおしまい。忙しい毎日がやってくると思うと少し嬉しいようで、でもちょっぴり怖い。

「んー?」

 今夜も変わり映えのしない夕食を済ませてソファーで寛いでいたところ、スマホが鳴る。電話だ。こんな時間に誰だろう。伸びをするように手を伸ばして、スマホの画面を裏返す。

「えっ……もしもし!赤井さん?!」
「ああ、名前。元気か?」

 少し懐かしさを感じる赤井さんの声に、胸がドキリと波打った。“元気か?”だなんて、それは私のセリフだというのに。赤井さんは入院中だという雰囲気を感じさせない。

「げ、元気ですよ?というより赤井さんは?大丈夫なんですか?」

 あの日、病院で私の指先にキスを落とした赤井さんの行動は本当に予想外だった。その後、何度もその理由を考えたけれど辿り着く答えには頭を振るばかり。確かに彼の瞳はいつもと違い、まるで特別な人に向けるような熱を帯びていた気がする。でもその後、赤井さんからは「怪我の具合はどうだ?」というメッセージ一件が来ただけ。やっぱり、あの行動に意味なんて無い。そう思う方がずっと楽だった。

「心配いらないさ。随分と暇を持て余してしまって、困っているところだよ」

 実際に電話越しの彼はいつも通りだ。赤井さんが笑っている姿が目に浮かぶ。本当はしっかり眠って食べて安静第一にして欲しいところだけど、それだけでは一日が持たないのだろう。傷病休暇を取っていた身だからよく分かる。

「ですよね、分かります」

 やっぱり本でも持ってお見舞いに行くべきだっただろうか。実は本当は一度、病院へ足を運んでいた。でも廊下でジョディさんとばったり会ってしまい、特に何を言われたわけでもないけれど結局、病室を尋ねることなく引き返して来てしまっていた。

「とはいえ煙草は当分、我慢ですからね?」
「……厳しいことを言うねえ」
「病院の方達を、困らせちゃダメです」
「俺を気遣ってくれた訳ではないのか」

 その指摘に一瞬反応が遅れてしまう。違いますよ、と呆れたように返せば、それは残念だと、これまた冗談なのかよく分からない返事が返ってきた。あのキスがあったからか、どうにも調子が狂ってしまう。

「それで、どうしたんですか赤井さん?こんな夜に電話なんて」

 この空気を上手く切り替えるように、話題の矛先を赤井さんに向けると彼は徐に口を開いた。

「名前は明日、復帰なんだろう?」

 赤井さんがそのことを知っているとは思わなかった。それに先ほどよりも真剣なトーンで聞かれるからドキリとする。ああ、でも。ジョディさんから聞いたのだろうか。そう思うと胸の奥が酷くざわめいた。

「あー、はい……そうなんです。といっても内勤限定なんですけどねー」
「だろうな。まあ、例え状況が変わったとしても、現場には出てくれるなよ。俺からも上に伝えておくが、」
「え、でも私そんなに病み上がりじゃあ……」
「よしてくれ、無理をすれば綻びが生まれる。俺もいないんだ」

 そう言われて、また言葉に詰まる。先輩としてのアドバイスを言っているのだと思うけれど、これではまるで“見えるところにいてくれ”と、言われているようだ。本当に赤井さんは一体、どうしてしまったんだろう。

「それと、腕の方はどうだ?」

 続く、赤井さんからの質問に救われた。私は気を取り直して今の状態を正直に報告していく。右腕にはまだ違和感と痛みが残っている。患部に触れると電流が走ったような痛みを感じてしまうのだ。銃を撃つ衝撃に耐えられるかは、やってみないと分からない。元の感覚に戻ればいいけれど、もしそうでなければ。

「まだ日が浅いんだ、それも不思議ではないよ」

 ネガティブに沈みそうになっていたところに、温かい言葉が降ってくる。やっぱり今日の赤井さんはいつにも増して優しい。ここにいないのに、抱き寄せられているかのような感覚にすらなってしまう。休職中で、人に会えていなかったからだろうか。私の涙腺はすっかり緩んでしまっていた。

「名前?」

 こういう時、赤井さんは本当に鋭い。まるで目の前にいるかのように名前を呼ばれて、私は思わず天井を仰ぎ見る。漠然とした不安感を、感じ取られているような気がして堪らない。今はきっと、仕事を休んでいたのもあって少し、少しだけ心が弱っていたんだ。

「なあ、名前」
「……んー?」

 誤魔化すように私は返事をする。

「話してみないか?」
「……はな、す?」
「ああ、俺は何も言うつもりはないんだ。ただ、いつも溜め込みがちな君のガス抜きぐらいはさせてくれよ」

 そう、赤井さんは笑って言う。私は唇を噛まずにいられなかった。どうして、こんなにも優しいのだろう。狡いよ、もう。

「ん……」

 本当は復帰を明日に迎えた今、何かに押しつぶされそうだった。怪我の具合もしかり、正直、あの不利な状況の中、今回は奇跡的に上手くいったけれど次は分からない。

「実は、ちょっとだけ……」

 気づけば、口からどんどん思いが溢れ出ていた。赤井さんは何を判断する訳でもなく、ただ優しく受け止めてくれていた。眠れない日もあると打ち明ければ、俺もあるよと言われて。その瞬間、どうしようもなく赤井さんに会いたいと思ってしまった。

「もどかしいな、顔が見えない」

 その上、赤井さんがそんなことを言うから堪らなくなる。

「なんなら、今から此処を抜け出してしまおうか」
「……電話だから話せたんですよ、きっと」

 冗談を言う赤井さんを制するように静かなトーンで言えば、そこで会話は途切れてしまった。

「なあ、名前」
「……んー?」
「だとしても、俺がここから出られたら、」
「もう、刑務所じゃないんですからっ」
「同じようなものさ」
「ん……」
「無事に出られたら、会いたい」
「……ふふっ、寂しいんですね赤井さん」
「ああ、寂しいよ」

 意外にも直球すぎる言葉に、面を食らってしまう。でも療養中の人に会えない寂しさは、私もよく分かっている。なら退院祝いも兼ねて、元気づけに行こう。オススメのDVDも一緒に持って行ったらどうだろうか。

「……じゃあ、会いに行きますね」

 ぼんやりと月を眺めながら、そんな計画をしていると、「楽しみだよ」と聞こえてくる。

「じゃあ私、そろそろ……」
「ああ……もう、こんな時間だったんだな」
「すみません、たくさん話しちゃいました」
「いや、」
「……じゃあ、」
「名前、」
「ん……?」
「おやすみ」

 赤井さんからの、“おやすみ”という言葉を、その時初めて聞いた気がした。

「っ……おやすみなさい!」

 改めて口にすると、恥ずかしくて、ぎこちなくて。それでも、心がじんわりと温かかった。